日々の出来事から、思ったこと、感じたことを綴らせてもらいます。
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さあ 世界史を語ろう。 第64回 東晋王朝

 華北では胡族が暴れ、秩序を維持することができない、やむなく江南地方に逃避して、独自の政権を築く、それを東晋王朝を呼ぶが、その際、東晋王朝は北支那に対し危機意識をもって、政権運営にあたらなければならないものであろう。
 その対策として、東晋王朝が行なったことは,免税政策による農民の誘引であったが、それ以外の部分では晋朝時代の名門貴族が晋朝時代の意識を引きずったまま風流生活に浸り,清談にうつつをぬかしていたという。そのために南朝の王族文化が花開いたとはいうが、国家が置かれている立場を考えれば、とるべき生活態度ではなかったであろう。
 しかし、そうした生活が一応文化として形成されたというのであれば、それ相応の期間、安定して秩序が形成されていたともみれるが、そうした安定した秩序が維持されたというのは、南朝貴族の不断の努力というよりも、むしろ、北支那側に分裂状態が起こっていたからとみるべきではないか。
 北支那側で争っていては、南支那へまで侵攻する余力もないであろうから、相対的な平和が南朝で維持されていたということであろう。しかし、そのような相手次第の平和が、いつまでも続くはずのないのは自明のことであろう。それを自覚したのが桓温であり、北支那への主権回復をはかろうとしたのは当然の行為として評価できよう。
 しかし、北支那側においても混乱状態がいつまでも続くはずもなく、やがて、統一者が現れて南支那へ侵攻してくるであろうことは当然予想される。そして、それが秦王符堅によって実行されると、もはや、南朝貴族の風流生活は吹っ飛ぶことになる。
 結果的には、符堅の侵攻は桓温のあとを引き継いだ謝安によって撃退されることになるが,それは根本的な問題の解決になったとはいえないであろう。問題の核心は、為政者となるべき人々の意識改革にかかっているのであり、それがない限り,中国大陸の国家像は漢王朝以来,停滞したままと評価されても致し方あるまい。
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by nogi203 | 2005-04-03 16:46 | 歴史分析
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