王業をなす者が、地方政権に甘んじていてはいけない、というのが孔明の五丈原への出征の大義名分である。地方政権に甘んじては、といっているからには、孔明は蜀漢を、自ら地方政権と認めたわけである。天下三分とはいえ、これでは三分は名前だけで実態を伴っていなかった、と評されてもいたしかたあるまい。
そして、自らを地方政権というからには、戦いを挑もうとする魏は中央政権であると認めていることでもある。となると、五丈原への出陣は、地方政権が中央政権に対し,政権の奪取を図るための戦いとみなせなくもない。それが、奪取とみなされないためには、地方政権の側に正当生を主張しうる根拠が備わっていなければならないであろう。その場合,正当生を主張しうる根拠とは、漢王朝の皇帝を自陣に抱えているという事実である。即ち,玉を握っているか否かである。
しかるに、この五丈原の戦いの時期、234年は、既に、漢王朝はその最後の皇帝献帝が曹ヒによって廃止された後のことであり,正当生に根拠をもつ王朝が存在しない時期であった。
それは言いかえれば,対する魏の方にも正当性がないということであり、だからこそ、孔明も魏に対して戦いを挑むことができたと解せよう。
とはいえ、自らを地方政権として自認している限り,中央政権に戦いを挑もうとしているは事実として認めざるを得ないであろう。正当性を主張する根拠もなく、中央政権に対等の立場で戦いを挑もうとするのは,勝算からいえば、殆ど、望みはないといってもいいのではなかろうか。
仮に,前漢の皇室の承継者でも抱えていれば、官軍としての立場から、全国に召集をかけるということも可能ではあったろうが、それができないというのであれば、国力の相違がそのまま結果に現れるしかないであろう。それでも、あえて戦いを仕掛けたところに、義を重んじる孔明の面目があるとみたい。