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<   2006年 01月 ( 18 )   > この月の画像一覧

さあ 世界史を語ろう。 第232回 パックスブリタニカの終焉

 平和は、調停者たるものの調停力の強さによって維持される。
 第一次世界大戦以前、その調停者たるべきものの地位に就いていたのは、いうまでもなくイギリスである。いわゆるパックスブリタニカの時代である。ところが、セルビアのサラエボで起こった事件は、このイギリスの調停者としての地位を根本から揺るがすことになる。
 事が、事件の当事国オーストリアとセルビアの間で収まっていれば何の問題もなかった。しかし、オーストリアの後ろにはドイツ、セルビアの後ろにはロシアがいるとなると、三国同盟と露仏同盟の戦いとなる。そして、その戦いで、もし、ドイツが勝つようなことがあると、ドイツの立場は列国間で飛躍的に高まることは明らかである。
 ドイツの立場が高まるということは、イギリスの立場が相対的に弱まるということである。イギリスは調停者としての地位にあるわけである。立場が相対的に弱まるということは、調停者としての権威も低下するということである。それは、ドイツがイギリスの指示に従わなくなるということに他ならない。
 とすれば、イギリスとしてはドイツに勝たせてはならないという選択肢をとらざるをえない。ということで、イギリスはロシア、フランス側に加わって参戦することになるのであるが、ここで、イギリスの参戦によって、ドイツがすぐに降伏してしまえば、イギリスの調停者としての地位は保たれたであろう。
 しかし、現実は違った。ドイツは容易に降伏せず、戦争は長期に渡ることになる。調停者云々というのであれば、この時点で既に、イギリスは調停者としての地位を失ったと見るべくであろう。しかし、イギリスはそれに気づかず、なおも、調停者としての地位に執着する。そのため、味方に引き入れられそうな相手に対してなりふり構わず、譲歩の誘いをかける。ユダヤにも、アラブにも、そして、日本、イタリアにも。
 イギリスは世界中に保有する権益の切り売りによっても、ドイツの勝利を防ごうとするが、そのような切り売りが戦後に禍根を残さないはずがない。イギリスはその禍根を調停者としての地位を失った自分に代わり、国際連盟なるものの創設によって切りぬけようとするが、それは、明らかにひとつの時代が終わったという証明に他ならないであろう。
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by nogi203 | 2006-01-30 14:25 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第231回 西原借款

 二十一ヶ条要求を中国政府につきつけた時、日本は中国大陸で殆どフリーハンドを握っていた。ところが、西原借款なるものを約束することによって、二億円の借款を実施することになると、そのフリーハンドは失われたことになったとみなせるのではないか。そこには、金を貸したという事実が厳然として存在し、その貸した金を何とかしなければならないという政治的負荷がかかることになる。以後の中国政策は、借款を行なったという事実に拘束され、建策も限られたものにならざるをえない。それは、対中国政策のフリーハンドを失ったという意味に他なるまい。
 一方、中国としては欧州戦線への参加を要請された見かえりとして、列強から借款を引き出す交渉を行なってきたが、その交渉の過程で、たまたま日本が引っかかってきたという感を抱くのではないか。いわば、この時、中国は借りたものの強味を日本から勝ち取ったということができよう。
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by nogi203 | 2006-01-28 14:46 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第230回 パレスチナ問題

 マクマホン協定は、キッチナー将軍のアラビア人の要求を認めようという演説に基づいて定められたものである。締結責任者はマクマホンとハシーム家である。公表性に疑問はない。
 バルフォア宣言はユダヤ人財閥ロスチャイルドに向けての書簡で述べたものである。これも公表性に問題はない。
 二つの協定と宣言の内容には矛盾はあるが、しかし、それは互いに歩み寄ることによって妥協が可能になるものである。そして、それは仲介をする者の力によって、さらに実現可能となるものでもあろう。
 しかし、ここに、あらたにサンスコ=ピコ協定なるものの存在が明らかになる。この協定はロシア革命時、ボルシェビキが冬宮を襲った時に発見されたものであるが、存在は秘密にされていたものである。公表性はまったくないのである。
 内容としては、イギリスはメソポタミアを支配し、フランスはシリアを支配する、その他イタリア、ロシアにも支配領域を割り当るというものある。イギリス、フランス、イタリア、ロシア、それらの国々はマクマホン協定とバルフォア宣言で明らかになった矛盾の調停者たるべき役割を担うものである。その国々が裏で、このような秘密協定を結んでいたということは、それらの国々を信頼してパレスチナの問題を解決しようとしていたアラブ諸国の信頼を一挙に裏切るものである。
 かくして、イギリス、フランス等の国々は調停者としての資格を失うわけであるが、代わりに調停者として登場してきたのがアメリカである。しかし、このアメリカもイスラエルよりの国家であり、とてもアラブ側が信頼できる調停者とはいえない。その結果がアラブとイスラエルの果てしない争いということになるのであるが、その究極の因を探すとすれば、結局は、争いを公平にさばけるアンパイアが不在であるということに尽きる。
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by nogi203 | 2006-01-26 14:35 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第229回 バルカン半島

 バルカン半島は大国の支配権が交錯する地域である。大国とはオーストリア、ロシア、オスマン・トルコの三国を指す。こうした大国の間で、小国が独立を保つというのは相当に困難なことである。殆ど、不可能といってもよかろう。いずれの大国も自国の支配下に治めようと常時、各策を講じているという状態であろう。そうした状況下において、支配下に組み込まれないためには、他の大国に援助を求めざるを得ないが、援助を求めればその後、援助してくれた国に従属しなければならない。
 そのような関係の中、大国同士が協力関係に入ってしまうと、小国はまったく対応策がなくなってしまう。三帝同盟によるドイツ、ロシア、オーストリアの結びつきはまさにそのような状態である。バルカン半島の小国は援助を求めるにも、その相手がいないという状況の中に閉じ込められてしまったといえよう。そのような閉塞状態の中、ウィルヘルム2世はロシアとの関係を断ち切るような新しい政策に転換する。三帝同盟が崩れたのである。
 このことは、バルカン半島の小国にとって、わずかに閉塞状態から抜け出るきっかけが見えたような気のするものであったかもしれない。だが、やはり、それでもいずれかの大国にたよらざるをえない状態であることには変わりはない。サラエボ事件は、そのようなわずかな隙間がのぞいた間の、ボスニア民族のわずかな希望を求めてのテロ行為であったのではないのか。
 しかし、こうしたテロ行為でバルカン半島の小国の置かれている状態が解消されるものではない。それどころか、他の国々をも巻き込んだ世界戦争にまで拡大していくとは、まったく予想外のことであったろう。結局、これら大国間の小国が真に独立を維持するには、国際間に内政不干渉、民族自決という国際的大原則が確立されるしかあるまい。
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by nogi203 | 2006-01-24 14:08 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第228回 辛亥革命

 中国は広大である。広大であるから、中央の目が地方にまで届かない。だから、地方ボスがはびこって地方を支配する。中央政府も統治力に限界がある以上、ある程度のことは容認せざるをえない。ある意味、共存関係にあったといってもよかろう。
 ところが、清朝政府が外債購入の代わりに外国に鉄道敷設権を与える契約を結ぶと、、地方ボスは地方での既得権が侵害されることを恐れることになる。その結果、地方ボスは大きく方向転換し、清朝政府との共存関係を破棄し、逆に清朝政府の打倒を政治方針とするようになる。
 その時、ちょうど三民主義を唱え、中国の近代化を訴える孫文という理想家がいた。地方ボス(郷神=科挙に合格したが官吏にはならず、地方で権力を振るっていた者達)は、その孫文を担いで辛亥革命を成し遂げるのであるが、もとより三民主義に傾倒しているわけではない。だから、孫文の理想が袁世凱によって、次々に崩されていっても、彼らは何の援助も与えない。彼らにとって大事なことは、自らの地位と資産を守ることであり、民主主義とか議会政治、あるいは憲法制定などというものは、どうでもよいことでだったのである。そのような国の政治に日本は介入していったのであるから、まさに泥沼にはまり込んだといってもよかろう。
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by nogi203 | 2006-01-23 13:53 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第227回 中国近代化への道

 義和団事件で清朝政府の無能ぶりは明らかになった。となると、中国はどうすればいいのか。世界の主要国が殆ど議会制であるのならば、中国も議会制に移行せざるを得ないというのが結論になるであろう。しかし、問題は議会制に移行するとしても、皇帝及び清朝政府をどうするかという問題は残ったままである。その場合、皇帝も清朝政府も残したままにするか、それとも、皇帝も清朝政府もなくしてしまうかという選択肢が残ることになる。
 前者を主張するものが康有為らを代表とする変法派であり、後者を主張するのが孫文を代表とする革命派である。そのうち、皇帝と清朝政府を残すとすれば、表向きは議会制と変わっても、実態は専制主義と変わりはなく、何の進歩もないということになる。となると、革命へということにならざるを得ないが、それにも問題がないわけでなない。
 革命を起こし、民意を政治に反映させるとすれば、憲法を制定し、普通選挙を実施し、議会を開いて責任内閣制を取らなければならない。問題は、そうした政治の仕組みを中国民衆が理解できるかであろう。満州民族の清朝を追い出し、漢民族の政権を樹立することが、モンゴル民族の元朝を追い出し、漢民族の明朝政府を樹立したのと同じことであると理解していたのでは、とても、議会政治の本質を理解するには程遠いといわねばならない。しかも、その間、外国の政治介入があるとすれば、その理想は捻じ曲げられていくことが十分に予想される。中国の近代化はまだまだ遠いといわねばならない。
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by nogi203 | 2006-01-22 13:40 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第226回 中国という国 その2

 日清戦争後の帝国主義時代、中国へは各国の企業が資本進出を行なった。その理由は労働力が安いからというものである。今日において、先進資本主義国が中国に資本進出するのも同じような理由からである。 しかし、帝国主義時代の資本進出は侵略といわれ、今日では外資歓迎である。この間、いったい中国では何がどう変わったというのであろうか。安い労働力、広大な市場などという条件は変わっていないとすれば、変わったのは資本を受け入れる中国の側ということになろう。つまり、中華思想で外国のものは外国のものである、という理由だけで排除してきたものが、豊かな現実をを見てしまえば、中華思想をいったん脇においても、外資導入を受け入れた方が得策と判断したのであろうか。

 外国製品の流入によって、中国国内の産業が打撃を受け、失業者が出たとしても、貿易関係が続いている限り、中国の側にも、それによって利益を得たものが出ていたはずである。そうして得た利益を事業に投資しないから、新たな雇用が生まれないのだととすれば、中国の民衆は中国人の貿易業者にも怒りの目をむけなければならないはずである。
 また、帝国主義的侵略とはいえ、鉄道を作り、港湾を整備するなどというインフラ整備が進んだとすれば、それ相応の雇用も生まれたはずである。にもかかわらず、外国の事業を侵略として一方的に憎悪するというのは、これはもう、一種の攘夷思想であり、外国人であれば何でも憎いというものであろう。でなければ、扶清滅洋などという、それまでは考えられなかったスローガンが出てくるはずもない。
 
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by nogi203 | 2006-01-20 14:32 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第225回 中国という国

 アヘン戦争からアロー号戦争にいたるまで、敗戦の原因を辿ってみれば、官憲の腐敗に至るわけであろう。となれば、敗戦後の改革はいかに官憲の綱紀を立て直すかでなければならないはずである。しかし、清朝政府が行なったことは西洋諸国のように近代的な軍備を備え、兵の訓練を西洋式に転換することでしかない。ここには、官憲の腐敗的体質、私利私欲に走る傾向を改善しようとする意気込みはみられない。これでは、洋務運動が成果を挙げることは期待できない。

 中国だけが文化国家であり、周囲の国々は皆、野蛮国であるというのが、中華思想の本質であろうが、そのような考え方を持つ限り、対等な立場で条約を結んだり、同盟を締結したりなどということは絶対にできない。なぜなら、条約や同盟は対等の立場を基本として成り立つものであり、その基本を根本から否定する中華思想ではありえないからである。しかし、時代は帝国主義である。帝国主義の時代で同盟を結ぶことができないというのは、国家として致命的であるといわねばなるまい。
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by nogi203 | 2006-01-19 15:21 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第224回 アヘン戦争を招いたもの

 中国の歴史は汚職の歴史である。しかも、その汚職は規模が違う。場合によっては、国を傾けるまでになる。その最も顕著な例はアヘン戦争である。
 アヘンは中国国内でも薬用に利用されていた。オランダ、ポルトガルも中国に輸出をしていた。しかし、それはわずかな量でしかなかった。ところが、イギリスがアヘン貿易に手を染めるようになると、たちまち、その量が拡大した。中国人の嗜好が急に変わるわけはない。とすれば、イギリス人が何か、その輸入の仕組みに手を加えたということになろう。手を加えるとすれば、推測されるのは貿易を管理する役人を買収したということではあるまいか。そして、この時、中国の役人がその買収を拒絶していれば、中国国内にアヘンが蔓延することはなかったであろう。
 ところが、中国の役人はどこの国の役人よりも倫理観が乏しく、腐敗は官憲の隅々にまで浸透していた。たちまち、清国の貿易収支は赤字に陥り、決済通貨としての銀は大量に流失していく。銀の減少は銀の市場価値を高め、交換通貨としての銅の価値を相対的に低下させていく。その結果として、銅で納税する農民は生活が苦しくなり、遂には、村を捨てて流民とならざるをえなくなる。そして、その流民を吸収し、組織化する太平天国が登場して強大化すると、もはや、清朝政府が独力で鎮圧することができなくなる。やむなく、民間から郷勇や遊勇などという軍隊を採用したり、外国の力を借りなければならなくなる。そうすれば、もはや清朝政府の権威は低下するばかりで、国内の秩序を維持する力もなくなる。
 そして、そうなった元を辿れば、役人の倫理観の低下と腐敗、そしてそれがもたらす汚職に行きつくことになるのであるが、その本質が今日改善されているかとなると、とても、そうは思えない。中国は今、高度成長の最中にあるが、その背景には依然として、アヘン戦争当時と変わらぬ汚職体質が潜んでいると想定して置くべきであろう。そして同時に、汚職と腐敗が清朝政府を滅亡させたように、中国共産党政府の破滅もそうした原因からもたらされるであろうことは十分に予想されることである。
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by nogi203 | 2006-01-18 13:23 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第223回 イギリスのインド支配

 イギリスのインド支配が円滑に行なわれるための最も重要な条件は、インドの方からイギリスに植民地支配を要請することである。しかし、仮にそのような要請がインドの方からあったとしても、インド国内に表現の自由や議会制度の意味を理解しうる層が、インド国内に成長してきたならば、その時点でイギリスは自らの役目は終わったものとして、インドから撤退すべきであったろう。
 ところが、現実には、そのようなことは起こらず、逆に、イギリスは直接支配を強め、そればかりかインド国内をムスリムとヒンドゥーに分割して統治する方法を選ぶことになる。そもそも、委託された使命という大前提が崩れる中において、このような新たな統治方法を持ち出すということは、とうていインド国民の納得を得られるものではない。そこには、抵抗と圧制という混乱状態が待っているだけである。

 インドの民衆は、カースト制度によって身分が定められている。しかし、人間は本来、自由なもので、そのような身分制度に縛られる必要なない、ということをイギリス人はインドの民衆に教えなければならないと思った。ここで、イギリス人はいわば、インド民衆に対しての押しかけ教育者となったわけである。
 インド民衆からすれば、押しかけてまで教育しようとすること自体、大きなお世話というところであろうが、百歩譲って、その教育権をインド民衆の側から認めたとしても、認めたのは教育権までである。その教育権を超えて、自らを統治してもよいという権利までは認めたのではない。認めたのではない以上、インド民衆の方から自治を認めてくださいとイギリス側に請願すること自体おかしいといわねばなるまい。なぜなら、そのような請求をすること自体、イギリスのインドに対する統治権を正当なものとしてインド民衆が認めてしまったことになるからである。まして、ベンガル州の分割をイギリスの意思によって分割するなどということは、もってのほかというしかない。
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by nogi203 | 2006-01-17 13:28 | 歴史分析