日々の出来事から、思ったこと、感じたことを綴らせてもらいます。
by nogi203
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さあ 世界史を語ろう。 第214回 ドイツ帝国の興亡

 社会主義者を弾圧する一方、社会保障制度を創設する、そうして労働者の不満を回避するという、いわゆるアメとムチの政策はビスマルクの巧みな統治手段として今日、評価されているが、このうち労働者の不満を回避するという目的の部分にビスマルクの本来意図することと異なった点があるのではなかろうか。
 いうまでもなく、ドイツ帝国は皇帝を頂点とする国家である。そうした皇帝国家において、このようにビスマルクの業績を高く評価するようなことがあれば、ビスマルクは帝国内において、皇帝よりえらくなってしまう恐れがある。それでは困るのであろう。なにしろ、ドイツ帝国は統一後まだ間もないのである。そして、その成立もプロシアの優越した軍事力を求心力としてやっと可能となったものに過ぎないのである。そのような状況の中で、国家として最も求められるのは、国家の頂点に立つべき皇帝の権威が、統一の対象となった幾多の君主国の上に確立されることであるはずである。そしてそのことを誰よりも承知していたのはドイツ帝国を実質的に指導するビスマルクであるから、彼本人が評価されることなどは本意ではないのはいうまでもなかろう。
 この社会保障制度の確立において、労働者の不満を回避することに成功したというのであれば、それは皇帝の権威を高めるために効果があったと評価されなければビスマルクとしては満足できない。だからこそ、ビスマルクはこの社会保障制度をウィルヘルム1世の勅諭という形で布告することになるのであるが、それでこそビスマルクの本意が達成されるとみるべきであろう。
 しかし、こうしたビスマルクの本意がいつまでも理解されつづけるとは限らない。皇帝としてはそれだけの経緯があったとすれば、ビスマルクに借りがあると見なければならないが、皇帝がウィルヘルム2世から3世に移ると情勢は一変する。ビスマルクの方針から外れた政策を指示するようになるのである。いわば、恩を仇で返すようなものであるが、そのようなことが皇帝一人でできるものとは考えられない。産業界がビスマルクを見限り、皇帝をたきつけ新しい政策に方向転換させたとみなせるのである。
 この過程において、ビスマルクは産業界に裏切られたと思わざるを得ない。なぜなら保護関税政策によってドイツの国内産業は発展したのであり、社会主義者弾圧法により労働者階級の要求を抑え込めたのであるから、産業界はビスマルクに借りがあったとみなさなければなるまい。ところが、産業界はあくまで強欲である。業容の拡大が、ドイツ艦隊の創設とその拡大によって実現されるというのであれば、ヨーロッパ列強のバランス・オブ・パワーに関係なく、政府に艦隊創設の実現をせまる。
 そして、艦隊法という法律が成立し、艦隊の建造が法律で義務付けられることになるのである。こうなれば、政府予算は艦隊建造に振り向けざるをえず、産業界は当然潤うわけであり、この方針に賛同するウィルヘルム3世をドイツ帝国の指導者として押し立てることになるのである。しかし、そのことがイギリス、ロシアを敵にまわすことになるのを心配するビスマルクを結果的に退けることになる。
 その結果、ドイツは第一次世界大戦での敗北、そしてヴェルサイユ体制の受け入れ、ワイマール共和国の成立、ナチスドイツの台頭へと進まざるをえなかったというのであれば、この時の産業界の強欲はまさに国を誤らせたというしかあるまい。
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by nogi203 | 2005-12-28 14:46 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第213回 不安定化するフランス

 普仏戦争に敗れたことでナポレオン3世は皇帝位を去った。皇帝のいなくなったフランスは、皇帝が登場する前の状態に戻ったことになる。それは、資本家と労働者、右翼と左翼、オルレアン派にブルボン派、そして共和派に社会主義者など、様々な政治勢力が対立する世界である。ナポレオン3世はそれら対立する政治勢力を調停するものとして、その地位を保っていたといえよう。
 ナポレオン3世が皇帝を去ったということは、即ち、調停者がいなくなったということである。その結果、一時は労働者がパリ・コンミューンで労働者独裁の政権をうち立てようとするが、それではいかにも調和は保たれまい。従って、パリ・コンミューンがすぐさま他の政治勢力の結集によって、押しつぶされたのも当然といえよう。
 結局、その結果、明確になったことは、一部の政治勢力だけが突出した政治状況は、到底、社会秩序を保つ上で効果的とは言えないということであろう。といって、では、異なる政治勢力をまとめる調停者が存在するかとなると、ナポレオン3世に代わりうるものなどいない。だから、この時期のフランスは、異なった政治勢力が事の成り行きを静観して見守るしかないという状況であり、何か事が起こる待っているという状況だったのではないか。だから、正式の政府の成立もなく、憲法の制定もないという状況が何年も続かざるをえなかったのであろう。仮に、この時、フランスを一つにまとめる指導者が登場していたとしたら、フランスは強大な国家に生まれ変わっていたはずと思われるが、フランスに二度とそのような時代は来なかった。
 そうした膠着状態の中、王党派や右翼の影響力を後退させるドレフェイス事件が起こり、急進的な共和主義政権が樹立されることになるが、これは、いわば、相手方のミスに乗じた勢力伸張であり、自らの力によるものではない。これではとても、強力で安定した政権ということはできず、この状態の中で、フランスは帝国主義列強に伍していかなければならなくなったといえよう。
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by nogi203 | 2005-12-27 16:38 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第212回 イギリス政治の民主化

 グラッドストーン自由党内閣が国内政治の民主化を進めるに際し、抵抗勢力となったのは軍と上院である。グラッドストーンはそれに対し、軍にはジャーナリズムを利用し、上院には政府の任命権を活用して抵抗を排除する。
 軍の指揮命令系統が統一されていないというのは事前にわかっていたことであった。騎兵と歩兵は国王に属し、議会から独立して統帥権を有している。一方、砲兵と工兵は議会の管轄下にあり、そのうち砲兵は財務省の支配下にもある。こうした交錯した指揮命令系統が実戦の場合、現場を混乱させることは心配されていたことである。そしてその心配が現実になったのがクリミア戦争であったが、議会の干渉を許さない軍としては、こうした事実は公表しないでおきたかった。ところが、クリミア戦争においては、史上初めてメディアが前線の現場をリポートして、そのむごたらしさをイギリス国内に伝えたと言われる。そして、そうしたメディアが軍の抵抗を廃して、生々しい現場をリポートできたのは背後で、メディアを利用して軍制の改革を実現しようとするグラッドストーンの援助があったからではないか。
 一方、上院については拒否権の問題があった。確かに、法律の提出権は下院にあるが、たとえ下院を通過したとしても上院で否決されれば法律は成立しない。これでは、いつまでたっても、民主的な国家に生まれ変わることはできない。そこで、グラッドストーンは自由党の息のかかった人物を次々と上院議員に任命して、上院の抵抗力を奪っていくことになる。法律の提出権が下院にあり、上院議員の任命権が政府にあったのでは、いくら上院に法案の拒否権があったとしても、何の意味もないものとなってしまう。
 かくして、グラッドストーン内閣によってイギリスの民主化は進められていくのであるが、こうしたことが可能となったのも、大前提として議会制というものが確立し、議会に議席を持つものが国民の代表として選出されるという背景があってこそのものであり、その意味で、選挙制度を改正して普通選挙権をより多くの民衆に拡大していったことは、グラッドストーンの民主化推進に自信を与えたことになったであろう。
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by nogi203 | 2005-12-22 14:25 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第211回 パリ・コンミューン

 労働基準法16条は損害賠償予定の禁止である。この禁止規定が最初に求められたのは1871年のパリ・コンミューンにおいてである。そして制定を強く求めたのは労働者階級である。1871年といえば、フランスでは産業革命の萌芽期であり、労働者の権利が未成熟な時期でもある。こうした禁止規定を求めるのは当然であるとも言えようが、当時はまだ労働者の数は少数にすぎず、大多数は農民であり、他にブルジョアジー、王党派、旧貴族である。
 パリ・コンミューンが労働者の意思を代表する政権である限り、労働者の要求を中心にした政策にならざるをえないであろうが、それでは他の階層の同意はえられないであろう。にもかかわらず、パリ・コンミューンは意思決定が労働者代表のみによって行なわれる政権の樹立を宣言する。さすがにそれでは、他の反労働者の反撃を招くだけであり、コンミューンが孤立するのもやむをえないというべきであろう。
 とはいっても、産業化は止めようもなく、そのことは同時に都市労働者の増加も止めようもないということである。となると、確かに1871年当時においては、コンミューンの試みは挫折したと言わざるをえないが、やがて、農民階層の都市労働者化、王党派、貴族の消滅により、都市労働者の意思が国民大多数の意思に転換する時代がやってくることは既に明白であったといえよう。
 
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by nogi203 | 2005-12-16 14:13 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第210回 地に落ちた栄光

 第二帝政下において、フランスは産業革命に入り、国家としての富は増加したはずである。この増加した富を国民すべてに公平に分配するような政策をとっていれば、第二帝政は益々安定していたはずである。実際、ナポレオン3世は労働者の団結権を認めるなど社会主義的な政策も取っていたのであるから、そうしたことも不可能ではなかったはずである。
 ところが、富は分配されることなく、一部の者に集中することになる。その結果、ナポレオン3世の政策はそれら一部の富裕な層の利益に偏った政策にならざるをえなくなる。メキシコが外債への利子支払いを停止したことに対し、軍事的な介入を行なったのも富裕層からの強い圧力が感じられるし、ドイツの統一拡大を阻止しようとするのも、市場を奪われることを懸念する富裕層からの強い意思が感じられる。
 結局、それらの政策すべてに失敗し、自ら墓穴を掘るような形で政権を追われることになるが、ナポレオン3世を追い払った富裕層もパリ・コンミューンという労働者の強い抵抗を受けて、改めて、フランスの建て直しにコストをかけねばならなくなる。しかも、労働者の抵抗を排除するために、ドイツ軍の協力まで仰いだとなれば、フランスの栄光はまさに地に落ちたといわざるをえない。
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by nogi203 | 2005-12-15 15:29 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第209回 プロシアの決意

 二月革命、三月革命によってメッテルニヒ体制は崩壊した。各国の政権にも自由主義的な考えが入ってくることになる。しかし、そのような時代的傾向に中においても、なお、メッテルニヒ的影響が残っている国があるとすれば、それはドイツにおいてであった。
 ドイツはウィーン会議において39の小国に分裂され、その小国群を統括する機関としてフランクフルトに連邦議会が設けられた。この機関を設けたのはメッテルニヒであるから、その機関の影響下から逃れられない限り、メッテルニヒ体制から脱却したことにはならない。しかし、脱却することを議会の話し合いによって実現できるとは思えない。ことに、力による国家意思の貫徹を信念とするビスマルクが指導者である限りはなおさらである。
 かくして、メッテルニヒ体制から完全に離脱し、国家意思の主体性を確立しようとするプロシアは、オーストリアがなお、フランクフルト連邦議会の権威を押し付けようとする態度に出てくると、ついに戦端を開くことを決意する。

 オーストリアを破ったことで国家としての主体性を確立したと思っていたプロシアは、まだそれが不完全であることに気付かされる。それは革命後のスペイン臨時政府が王位候補者として、プロシア貴族の支流につがる人物をスペイン国王として指名したときである。その指名をプロシアが受諾したことに対して、フランスがヨーロッパの勢力均衡を崩すものとして、まず反対し、さらには、二度と受諾しないという保証までプロシアから取りつけようとする。
 これは、国家としての主体性を否定されたということであり、国家的主体性の確立を目指すプロシアとしては、何としても打ち破らねばならないことである。そうした意識が誰よりも強かったものこそ、オットー・フォン・ビスマルクであり、彼はフランスの要求に応じようとするウィリヘルムⅡ世の意思を曲げさせてまで、フランスとの開戦に国家を引きずり込んでいく。
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by nogi203 | 2005-12-13 14:31 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第208回 ウィーン体制崩壊へ

 スペインの革命運動に対してはフランスの干渉戦争を認め、トルコからの独立を目指すギリシャに対してはロシアの支援を認めないというのは、メッテルニヒの政治方針としては筋の通ったものといえよう。しかし、ギリシャのトルコからの独立戦争に対しては、ウィーン体制下にあるヨーロッパ諸国の間にも支援の声が次第に大きくなってくる。その声を押さえて、なおかつ、ロシアのギリシャ支援を否認したことはメッテルニヒにとっては苦渋の決断であったともいえよう。
 それでもなお、ヨーロッパのギリシャ支援の世論は高まり、バイロンの著作と行動はそうした気運を一層燃え上がらせる。となれば、いかにメッテルニヒといえども、そうした世論をいつまでも押さえつけておくことはできない。ついに、1828年、ロシアがギリシャ支援のため対トルコ戦争に踏み切った時、メッテルニヒはことさらに反対の態度をとることを控えざるをえない。
 しかし、このことの意味は、単なるギリシャ独立という問題で収まるものではないことは明白であった。即ち、自由、解放を目指す運動をメッテルニヒが承認したことであり、それは同時に、自らの体制原理の放棄、否定につながりかねないことを意味していたからである。
 ということで、ギリシャ独立戦争とその意味をヨーロッパにひろく宣伝したバイロンの行動は、大きく言えば、メッテルニヒのウィーン体制を崩壊に導くきっかけを与えたとも評価できよう。
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by nogi203 | 2005-12-12 15:26 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第207回 イタリア統一

 ソルフェリーノの戦いは北イタリアをオーストリアから解放するための戦いであった。しかし、南イタリアのナポリ王国をイタリアに統合しようとする戦いに、北イタリアをイタリアに併合しようとした時のような民族的エネルギーが発揮できるかどうかは疑問であったろう。なぜなら、ナポリ王国は外国に支配されているものではなかったからである。
 となると、結果的にナポリ王国がサルディニアに併合され、イタリア統一が実現されたのはナポリ王国側に統合への協調的な意思が存在していたからとみなければならない。
 しかし、当時ナポリ王国は専制主義の国であり、ヴィクトリオ・エマヌエルを君主とする立憲君主国のサルディニアに統合される意思があったとは思えない。とすれば、ナポリ王国側に統合に応じようとする協調的な意思の変化があったということになる。
 それこそが、ガリバルディーによるナポリ王国の占領ということになるが、ただ、その場合でも、ガリバルディー自身にイタリア統合への協調的な意思がなければならなかったはずである
。そして、その時まさに、ガリバルディーが何の代償も求めず、ナポリ王国の支配をヴィクトリオ・エマヌエルに委ねたことがイタリア統一の最大の原因といわねばならない。もしこの時、ガリバルディーがナポリ王国の占領から何らかの代償を要求していたならば、イタリアは内乱状態に陥っていたことが想像される。
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by nogi203 | 2005-12-10 13:25 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第206回 皇帝の報復

 二月革命はオーストリア、ドイツ、イタリアへとヨーロッパ全体に波及する。そして、それらの国でも自由と憲法を求める闘争が始まる。しかし、当初の勢いもやがて権力側の力で押しつぶされ、革命は不成功に終わる。その原因は革命の輸出国フランスの支援がなかったことにも求められる。いくら自主的な行動であったとはいえ、国内だけの力では権力を倒すことは困難である。そこに支援国があれば、革命勢力も勢いづくことができる。
 では、なぜフランスは支援しなかったのか。それについては、ナポレオン1世の経験が影響していないか。ナポレオン1世は革命の理念をヨーロッパに拡充するために、ヨーロッパ各地に軍を進めた。しかし、その結果は各国のナショナリズムを呼び覚まし、かえって侵略者の扱いを受けて撤退しなければならなくなった。
 そうした歴史をフランスは持っているのである。とすれば、二月革命の時においても、各国の革命勢力を支援するため軍事的な援助を与えたとしても、またナポレオン1世の時と同じように、ナショナリズムを呼び覚まして、結果的に侵略者呼ばわりされないとも限らない。そこまでリスクを冒して援助する必要があるか、という考えがフランスにあったとしても不思議はない。
 つまり、革命を行なうならば、自国の力だけで行なってくれということであろう。これは革命を起こした国々の側から見れば、ナポレオンを侵略者として排除したことの報いが、40年の歳月を経て、自分達に跳ね返ってきたということではなかろうか。
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by nogi203 | 2005-12-08 13:50 | 歴史分析

さあ 世界史を語ろう。 第205回 ナポレオン3世

 二月革命で何が変わったかといえば、国王がいなくなり、大統領が生まれたということであろう。あとの基本的な国政の仕組みは何も変わってはいない。つまり、国王もしくは大統領という国家の主権者がいて、その主権者の主権を制約する権限をもった議会がある。そして、主権者の意思を執行する内閣があるということである。この仕組みには、何の変化もなかったはずで、ただ、共和国憲法というものが制定され、それに基づいて大統領職という者が新たに設定されたということである。 
 こうしたことになったのであるが、ここで重要なことは、国王は世襲であり,国民に選ぶ権利はなかったが,大統領は国民が選ぶことのできることものになったことであろう。そして、その大統領が内閣を任命することができるのであれば,自らに都合のよいものを大統領に選べば、自らに都合のよい内閣が実現され、自らに都合のよい政策が実行できるということになる。
 そこで、ブルジョアは二月革命で傷ついたブルジョアの権益を守ってくれる代表者として、六月事件で労働者を押さえこんだカルヴェニャックを推すことになるが、共和国憲法による選挙というのは彼らの思いどおりの結果をもたらしてくれるという保障などない。ルイ・ナポレオンという者がナポレオン皇帝の甥という身分を背景にして国民の支持を集め,フランス史上始めて大統領の職に就き、ブルジョア思惑を打降すことになる。
 それでナポレオン3世となったルイ・ナポレオンがブルジョアの権益を守ってくれれば申し分ないのであるが,国民全体の支持を集めて当選したナポレオン3世としては、ブルジョアだけの権益を優先するわけには行かない。当然、商工業者、労働者、農民の利益にも配慮せざるをえないであろうから、ブルジョアには不満が残る。そこで、ナポレオン3世の意思を制限したりするような人事を要求したりするが、それは逆に、皇帝の甥といプライドをもつナポレオン3世と逆切れさせ、ついには、クーデターという行動に走らせてしまい議会の停止という事態を招くことになる。
 そして、新たに帝政が布かれることになるが、ブルジョアにとっても労働者にとっても農民にとっても、いずれに偏ることなく、すべてに配慮の行き届いたものであれば、まさしく調停者としての役割を果たすことになり,それなりの安定政権が実現するということにはなったというべきか。
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by nogi203 | 2005-12-05 15:38 | 歴史分析