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民法625条第1項

 民法625条第1項によると、労働者の地位を使用者が第3者に譲るについては、労働者の承諾をえなくてはならないとなっている。このうち、労働者の承諾については労働協約又は、就業規則において包括的な同意がなされているものとの解釈が為され、それに基づいて出向が命じられている。しかし、その出向も在籍出向に限ってのものであり、転籍を伴うものであれば、包括的同意は及ばないとされる。その場合、労働協約や就業規則は効力をもたず、個別の同意が必要とされる、というのがこれまでに構築された法理となっている。
 この法理は当然のことであろう。なぜなら、労働契約は労使双方が基本的な義務を履行すればよいというものではなく、附随的な義務も誠実に履行する責任を伴うものであるからである。それならば、出向などというものは労働契約締結時の労働する場所という労働条件を変更するものであるから、使用者は本来的に誠実義務に反していることになる。まして、使用者も変わることになる転籍では誠実義務の履行により大きく反しているのであり、その反動として、労働者自身の個別の同意が求められるというのも当然のことといわねばなるまい。
 そればかりでなく、誠実義務に反してもなお、命じるというのであれば、そこには企業活動上の必要性が厳しく求められるのも当然のことであり、それに加えて、労働者が受ける不利益に配慮する責任も当然負うことになるであろう。いってみれば、民法625条第1項の適用も労働者への配慮と尽くして後の適用でなければならないということになろう。
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by nogi203 | 2005-07-31 14:41 | 労働基準法の穴

さあ 世界史を語ろう。 第143回 中国社会の変貌

 皇帝独裁による弊害という点を除いては、嘉政、万暦時代の明朝は順調な社会発展を遂げたといえよう。それはまず、農業社会の変貌から始まる。
 この時代、農業を離脱する者が増加したが、一方では、地方都市が各地に起こり、離脱した農業者を雇用者として受けいれる受け皿としての産業が地方に現れてきた。しかし、農業から離脱するものが増加するということは、農業専業者が減少することでもあろう。そして、そうした情況が現われてきてもなお、増加する地方都市人口の食料を供給できたということは、農業生産力自体が向上したことに他ならない。そして、農業生産力の向上とは、農業技術の向上のみではなく、新しい農業用地の開発も含まれるであろう。
 それらのことがあいまったことが農業生産力の向上をもたらしたというのであれば、その波及効果は米、麦などの穀物生産だけには留まるまい。他の商品作物へも及ぶとみなければならず、それは新しい商品市場の形成へとつながっていく。
 となれば、そこに新しい商人が登場してくることになり、同時に商品市場も拡大していく。商品市場が拡大すれば、交換手段の便宜性が重要な課題となり、銅銭だけでは間に合わず、紙幣や高額通貨の必要性が要求されてくることになる。
 当然、政府はその要求に応えようとするが、紙幣は兌換準備が整わず、流通が停滞し、銀に頼らざるを得なくなる。しかし、銀は中国では産出せず、海外からの輸入を促進することになる。こうした流れが明朝を中心とする東アジア経済の拡大を促したとみなすことはできないものか。
 しかし、こうした民間主導の経済拡大がつづくのとは反対に、神宗専制の明朝政府は奢侈による国庫の濫費、内乱対策のための軍事費増大などを増税によって切りぬけようとする。そして、そのようなことを皇帝に無制限に認めさせる原因こそが、議会制度というものをもたない中国社会の決定的な欠陥であるといわねばなるまい。
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by nogi203 | 2005-07-30 14:44 | 歴史分析

確定拠出年金、掛け金の増額

 確定拠出年金には月額拠出額の限度がある。厚生年金基金や税制適格年金を実施している企業では、その額は月額18、000円であった。しかし、平成16年10月からその限度額は引き上げられ,23、000円になった。その結果、どういうことが起こったか。
 月額18,000円で30年間積み立てると,積み立て原資は648万円。
 では、月額18,000円を30年間、年3%で運用すると最終的な年金資産総額はどうなるか。こうした場合、年金終価係数という係数を使う。30年、3%の年金終価係数は49.0027である。すると、
 18,000円×49.0027=8,820,486円 という年金資産が積み立てられることになる。
それが、月額拠出限度額が23、000円になると、
 23,000円×49.0027=11、270、621円となる。
さらに、40年間、3%の場合で算定すると、年金終価係数は76.524となり
 18,000円×76.524=13、774、320円 であったのが
 23、000円×76.524=17、600,520円 となる。
いずれにしても、積み立て原資を大きく上回ることになる。

 この退職金としての受け取り額には,退職所得控除が適用される。
 その控除額の計算式は次のとおりである。
 
 勤務期間20年以下  40万円×勤務期間
 勤務期間20年超   800万円+70万円×(勤務期間-20)

 この計算式によると、30年間勤務した人の退職所得控除は
 800万円+70万円×(30-20)=1500万円
 40年間勤務した人の退職所得控除は
 800万円+70万円×(40-20)=2200万円 となる。

 この控除額が適用される限り,月額拠出額が18、000円から23、000円に引き上げられても,30年、3%、40年、3%、いずれの条件で運用しても確定拠出年金からの退職金としての受け取り額に税金がかかることはなさそうである。
 しかし、最近の税制審議において、退職金優遇税制を見直すという動きが出てきたことが気になる。優遇を見直すとすれば、その対象は控除額の計算式である。つまり、
 勤務期間 20年超  800万円+70万円×(勤務期間-20) という式である。見直すとすれば,このうち見直すのは、70万円×(勤務期間-20)という部分であろう。すると、すべての退職所得控除の計算は 40万円×勤務期間 になると思われる。
 となるとどうなるか。
 30年勤務、40年勤務の人の退職所得控除額はそれぞれ
 40万円×30=1200万円   40万円×40=1600万円 となる。
 40年間、3%で運用した場合は、月額拠出限度額が18、000円から23,000円に引き上げられた結果、支給額が非課税限度額を超えてしまう事になる。
 約1377万円が1760万円になって、1600万円を超えてしまう。
 この超えた額の2分の1に10%の税金がかかるのであるから。
 (1760万円-1600万円)×2分の1×0.1=8万円 の税金が徴収されることになる。

 拠出限度額を引き上げてほしいという要求はかねてからあったが、引き上げが実現したことの代償のように、退職所得控除の見直しということが提案されてしまった。その結果、退職所得控除をうけて税金がかかることはないと思っていたのが、かかる恐れが出てきたというわけである。江戸の仇を長崎で討たれたということか。
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by nogi203 | 2005-07-29 15:06 | 年金話あれこれ

さあ 世界史を語ろう。 第142回 チムールの征服事業

 14、15世紀アジアにおいて、政治的権威の正当性を主張しうるものは、血統であろう。その点について、チムール自身、チンギス・ハーンの血族であると主張しているが、自称に過ぎず后にチンギス・ハーンの血族を迎えたとしても、根拠に乏しいといわねばなるまい。
 となると、彼の征服事業は盗賊と変わりなく,その成果を配分することによってしか、部下をつなぎとめておくことができない。彼の征服事業が殆ど休みなく続けられてのも、その故と解する。 
 しかし、そのようなことは,いかにチムールといえども、いつまでも続けられるものではない。血統による主張が困難というのであれば,それに変わる何らかの正当性を求めざるをえないことになる。チムールはそれをイスラム教の教義に基づく異教徒の征伐という大義に求めることにする。それはそれで征服事業に根拠を与えはしたが、しかし、そのような事業はチムールの血族でなければ行なえないというものではなかろう。イスラム教の教義に殉ずるものであれば、実力次第で誰でも行ないうるものである。それは、チムール一族の世襲による王権の確立を不可能とすることでもある。従って,チムール一代の事業は、彼一代で終わることになる。
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by nogi203 | 2005-07-28 13:57 | 歴史分析

税制適格年金の廃止

 税制適格年金は平成24年3月31日をもって廃止される。廃止される最大の理由は、加入者の受給権保護に問題があるからである。積み立て不足が生じた場合の積み立て不足解消義務が明定されていないことなどはその典型である。
 しかし、それと同時に、経済のグローバル化ということも、その一因とは解せないであろうか。経済のグローバル化に伴って、企業に要求されるのは優秀な人材の確保であろう。優秀な人材なくしてグローバル化した経済競争に勝ちぬくことはできない。
 とすれば、企業は優秀な人材を誘引するための様々な制度を準備しておかなくてはならない。ストップオプション,カフェテリアプランなどがそうした制度の例としてあげられるであろう。そして、それに加えて退職金制度というものも魅力的なものでなければならない。
 魅力的とは、即ち,支給額が優遇されていることにはほかならない。しかし、その優遇されているという要件で税制適格年金をみてみると、金融機関との締結契約が国税庁長官の承認を受けるための条件として,不当に差別的な扱いを禁じている規定がある。この不当に差別的な扱いを禁じる規定に支給額が優遇されるという部分が当てはまれば,税制適格年金そのものが承認されなくなるおそれがある。
 つまり、税制適格年金はグローバル経済時代に適合しない制度であるということである。
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by nogi203 | 2005-07-27 13:44 | 年金話あれこれ

さあ 世界史を語ろう。 第141回 明朝の官僚

 明朝では、近衛兵に対する指揮命令権、警察への指揮権、この両方が宦官の支配下にあったという。これは、重大な譲歩というべきであるが、そのような決断を下した背景として、中央集権化が皇帝を中心として、いよいよ強化されたことがあるのではなかろうか。つまり、いつでも解任できる権限が皇帝にあるからこそ、宦官であろうとも委ねてしまうことができるということである。
 そして、そうした中央集権がいよいよ強固になった背景としては,俸給による官吏の採用制度が徹底されたことがあるのではなかろうか。それは、地方の直接経営権を与えることによって,地方統治を行なわざるを得なかった時代と比べ,地方官吏を中央政府に従属させる効力をもたらす。さらに、皇帝権限による官吏登用は皇帝への忠誠を構築するなどという効果と共に、中央集権化をいよいよ加速させたものと推測する。
 こうした、忠誠心に富んだ新しい官僚群の登場は、それまでの中国史にはない新たな政策をもたらすことになる。その最も顕著な現われは,北方民族対策ではなかろうか。もとより、明朝はモンゴル民族を北方に追い出したことによって成立した王朝であるから、成立後はその逆襲に備えなければならないはずである。
 ということで、万里の長城の拡張などがはかられたが、そうしたことをしたとしても、モンゴルが再び統一されれば強大な侵攻勢力としての脅威が高まるはずである。事実,エヤン・ハーンとかダヤン・ハーンというチンギス・ハーン以来の統一者がモンゴルに出現し,明朝との国境を脅かす事態にまで進展しているのである。
 にもかかわらず、それまでの北方民族のような侵入を許さなかったのは、新しい官僚群による対北方民族政策の転換があったからではないのか。
 つまり、敵対から友好へ、即ち、長城近辺の街における馬市を朝貢貿易に発展させ,北方民族への生活保証的な面を充実させたことにあるのではなかろうか。こうしたことをみてみると、漢王朝成立以来、停滞しているといわれる中国史も基本的な部分では、大きく変化していることを認めねばなるまい。
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by nogi203 | 2005-07-25 15:00 | 歴史分析

割増賃金

 労働基準法32条によって、1週の労働時間は40時間、1日の労働時間は8時間を超えて労働させてはならないと定められている。すると、1週40時間、1日8時間を超えて労働させると法律に違反したことになる。法律に違反したのであれば,当然、罰則を課さなければならない。 ところが、同じ労働基準法36条においては、労使協定を結んで、行政官庁に届け出た場合は、32条の規定にかかわらず労働時間を延長し,休日にも労働させることができるとなっている。32条違反が免責されるということである。
 免責されると罰則を加えることはできない。とはいえ、現実に法令違反は生じているのである。それは放置しておくことはできないものであろう。ということで,労働基準法37条に割増賃金というものを設けている。罰則をつけられないので、それに代わるものという意味合いで受けとめざるを得ないが、割増賃金といっても、2割5分から5割以下の範囲内である。
 今、月給30万円の労働者に時間外労働の割増賃金が2割5分つくとすれば、その額は
 30万円÷(40×7分の30)=1,750円(1ヵ月の時間当たり賃金)
 1,750円×1.25=2187.5=約2,188円
 2,188円-1750円=438円
 結局、1時間当たりの割増賃金は438円でしかない。
 労働基準法の罰金刑で一番軽いのは、14条契約期間、15条労働条件の明示、24条賃金の支払い、26条休業手当など、30万円以下である。
 36協定で免責された結果,本来なら30万円以下の罰金を課されていたかもしれない時間外労働が、36協定というものがあるというだけで、438円で済んでしまう。罰則に代わるものであるとするならば,この割増率ではあまりにも軽いといわざるをえない。
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by nogi203 | 2005-07-24 13:50 | 労働基準法の穴

さあ 世界史を語ろう。 第140回 明朝と宦官

 宦官というものは宮廷内にいてこそのものであろう。しかし、明朝においては出使として宦官が宮廷外の仕事に多く起用されている。出使として活用された宦官の中には、インド洋、アラビア海にまで大航海を行なったといわれる鄭和や王景弘、チベット,ネパールを探査したといわれる侯顕,中央アジアを調査した李達、そして、満州、黒龍江方面に入ったイシカなど地理学上の貢献をした宦官もあるが、多くは明朝の領域内において地方派遣の任にあたった者である。
 彼らは明朝の勅命を受けていることを背景にして、横暴な行為を尽くしたといわれるが、このような利権の絡んだ任務が、王室と宦官という一方的な使用従属関係の中で任されたとはちょっと考えにくい。そこには王室と宦官との間に、対等な契約関係が成立していたと考えなくては理解し得ないものがある。
 では、そのような対等な契約関係はいつ、どうして、できあがったのかという問題が次に生ずる。それはまず、燕王が建文帝から王位を簒奪することになった靖難の役にかかわる事情を見なければなるまい。
 この時、燕王は膠着する対立状況を、建文帝に仕える宦官の内通によって,有利に展開することができたのであるが,宦官が内通した動機というものが、建文帝の過酷な扱いに耐え兼ねたからというものである。これが真の動機ならば、燕王は宦官を救済してやったのであるから,以後、宦官優遇策に拘束される必要もないはずである。
 しかし、現実には出使として多く起用しているのであるから優遇策をとらされていたと解せぬでもない。とすれば、建文帝の過酷な扱いに耐え兼ねてという動機も怪しいものとなる。
 優遇政策に拘束されているというのであれば、この時の事情はむしろ、燕王の側から宦官に働きかけて実現したものとみるのが合理的といえるのではなかろうか。ただ、それをいえば王室の権威に係わることであるから、表面上だけは宦官からの申し出を受けていうことにしているのかもしれない。
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by nogi203 | 2005-07-23 13:34 | 歴史分析

世帯単位年金の見直し

 昭和29年改正の厚生年金保険法は現在につながる厚生年金保険法の原型である。その基本設計は常用雇用の夫と専業主婦の妻という夫婦像をモデルとしている。
 しかし、時代は移り,今や,常用雇用以外の社員が増え,専業主婦の数も少なくなった。そこに、離婚数の増加が加われば、もはや昭和29年当時の厚生年金保険法がモデルとした夫婦像は希少な存在となってしまった。
 希少な存在となったにもかかわらず、改正当時の基本設計が維持されたままなので、基本設計の枠外に置かれた人達からは不満が出る。不満の対象は主に、加給年金と第3号被保険者制度である。共に,専業主婦に配慮したものであるが、加給年金は昭和29年の改正、第3号被保険者制度は昭和60年の改正で設けられたものである。
 こうした不満を解消するには年金を世帯単位から個人単位へシフトすることである。そしてその結論はすでに出ている。2000年9月には社会保障制度審議会から個人単位へシフトするようにという意見書が出ているし,2001年6月には経済財政諮問会議からも骨太方針なるものが出されて,社会保障制度の個人化が示されている。
 にもかかわらず、2004年4月の改正では個人単位へのシフトは見送られ,加給年金も第3号被保険者制度もそのまま残った。
 確かに,個人単位にシフトすれば,不満は解消するであろうが、それは一方において専業主婦を切り捨てるということでもある。専業主婦という存在が消滅したというのであれば、こうしたこともできようが、いくら少なくなったとはいえ,専業主婦は現実にまだ存在する。存在する限り,一方的に切り捨てるわけにもいかない。だから、廃止に踏み切ることができなかったということであろうが、議論は終わったわけではない。
 次期年金改正期への持ち越しということであろうが、権威ある審議会や諮問会議から意見書や方針が出されているのである。これをまったく無視して、議論を進めるというわけには行かない。おそらくは、次期年金改正期においては年金の個人単位への方針が明確になるであろうし,そうなった場合,加給年金及び第3号被保険者制度の廃止は当然、議論の中心議題となることは避けられないのではなかろうか。
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by nogi203 | 2005-07-22 14:43 | 年金話あれこれ

さあ 世界史を語ろう。 第139回 永楽帝の治政

 永楽帝の治政は始めから制約を抱え込んでいた。それはまず、帝位に就く際の事情から始まっている。永楽帝の先帝は建文帝であり、建文帝にはまだ失政といえるほどのものはなかった。にもかかわらず、永楽帝が帝位に就いたのは、まぎれもなく簒奪であり,このことは否定しようもない。それは例えば,洪文帝が元朝を倒す時に掲げた大義名分が滅夷興漢であったのに比べて、単に奸側を除くということだけであり、しかも、靖難の役で建文帝がその要求に応じて方孝儒以下の君臣を除いているのであるからなおさらである。これでは、方孝儒から燕族といわれてもやむをえない。
 そして、そうした経緯があるからこそ完全に建文帝を打倒するにも時間がかかり,やっと宦官の内通によって帝位を奪うことに成功するのであるから,宦官への配慮がその後も必要となり、同時に宦官の専横をも許すということにもつながる。それがまず第一の制約として、永楽帝の治政を拘束することになるが,第二は打倒してモンゴルへ追い返したはずのモンゴル対策である。
 モンゴルは元朝が倒されたとはいえ,それは本来の根拠地に戻ったというだけで、民族として消滅してしまったのではない。追い出されたというのであれば,取り戻したいという欲求が生ずるのは当然のことであり,それに対しての対策は追い出した側の務めとしてやむをえないものであろう。その対策が、永楽帝の第二の制約として課せられてくるわけであり,永楽帝の治政は見方によれば,そのことだけに専念させられていたといっても言い過ぎではなかろう。
 ただ、それだけに専念していた成果として、対モンゴル対策は成功したと評価してもいいのではなかろうか。もっともそれは、モンゴルがタタールとオイラートに分裂し、永楽帝が一方に味方して、他方を後退させ,又時期がくると,今度は他方に味方して、一方を後退させるという戦略を巧妙に使い分けられたという相手方の不統一が起因であるという点において、幸運であったというしかない。
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by nogi203 | 2005-07-21 14:08 | 歴史分析