チャーチルのフルトン演説に反応して、アメリカが取った対策がジョージ・ケナンの封じ込め作戦である。しかし、封じ込め作戦は対応が後手後手に回るという批判を受け,修正が図られることになる。そして出てきた政策が、マーシャルプランに、西ベルリンでの新通貨発行、そして北大西洋条約機構(NATO軍)の創設などであるが、その内容を見ると,フルトン演説前に比べると見違えるばかりである。
当然、東側も反応して対応策を打ち出すが、ワルシャワ条約機構やコミンフォルムの創設など、いかにも西側の政策をなぞったような対応策という観を否めない。これだけの反応の差を見れば,その後の冷戦の帰趨もすでにこの時に見えたような気がしないでもない。
しかし、より重要な問題は、こうした積極的な対応策で成功したアメリカのその後の外交政策である。即ち,政治状況が後手に回る恐れがあるならば,事態が取り返しのつかなくなる前に、アメリカの方から積極的に仕掛けていくという基本方針の確立である。