二月革命、三月革命によってメッテルニヒ体制は崩壊した。各国の政権にも自由主義的な考えが入ってくることになる。しかし、そのような時代的傾向に中においても、なお、メッテルニヒ的影響が残っている国があるとすれば、それはドイツにおいてであった。
ドイツはウィーン会議において39の小国に分裂され、その小国群を統括する機関としてフランクフルトに連邦議会が設けられた。この機関を設けたのはメッテルニヒであるから、その機関の影響下から逃れられない限り、メッテルニヒ体制から脱却したことにはならない。しかし、脱却することを議会の話し合いによって実現できるとは思えない。ことに、力による国家意思の貫徹を信念とするビスマルクが指導者である限りはなおさらである。
かくして、メッテルニヒ体制から完全に離脱し、国家意思の主体性を確立しようとするプロシアは、オーストリアがなお、フランクフルト連邦議会の権威を押し付けようとする態度に出てくると、ついに戦端を開くことを決意する。
オーストリアを破ったことで国家としての主体性を確立したと思っていたプロシアは、まだそれが不完全であることに気付かされる。それは革命後のスペイン臨時政府が王位候補者として、プロシア貴族の支流につがる人物をスペイン国王として指名したときである。その指名をプロシアが受諾したことに対して、フランスがヨーロッパの勢力均衡を崩すものとして、まず反対し、さらには、二度と受諾しないという保証までプロシアから取りつけようとする。
これは、国家としての主体性を否定されたということであり、国家的主体性の確立を目指すプロシアとしては、何としても打ち破らねばならないことである。そうした意識が誰よりも強かったものこそ、オットー・フォン・ビスマルクであり、彼はフランスの要求に応じようとするウィリヘルムⅡ世の意思を曲げさせてまで、フランスとの開戦に国家を引きずり込んでいく。