植民地の多くはイギリス本国から許可状をもらって植民地事業を行なっている。しかし、こうした許可状においては、その範囲を厳格に定めておかないと,あとで必ず揉め事がおこる。許可状を受け取った側は自分に都合のいいように許可範囲を拡大解釈するし、許可を与えた方はそこまでは許していないと主張する。許していないのであるから、一定の制限を加えようとすると,許可状を受けた側はそれを圧制と非難する。圧制が単なる非難に収まっているうちはよいが、実力的な行動が伴うようになると,事態は一変する。一変させるきっかけを作るのは人である。アメリカ独立戦争において、そのきっかけを作ったのはパトリック・ヘンリーであり、サミュエル・アダムスらではなかったか。
しかし、いざ独立をめざして独立宣言を発表するとしても、現実に植民地事業は国王から許可状をもらって始めたのであり,独立するのであれば、その国王の許可状発給権限を否定した上でなければならないであろう。となれば、その権限を否定するだけの強固な理論の提示が求められることになる。かくして、その時、独立宣言を起草した人々が生み出した理論が、自明の理として奪われることのない諸権利は造物主によって附与されたものである、という理論である。即ち、造物主という存在を設定することによって、国王より上位の存在のあることを示したのである。
その際、キリスト教における創造神話は独立宣言起草者にとって、心強い法的根拠としての役割を果たしたものと理解することができるのではないか。国王は敬うべきものであるが,神はそれ以上のものである。だから国王の許可したものであったとしても、神がそれ以前に与えてくれたものであるならば、権利として行使しても何の不都合のない、という言い分である。いかにも、強引な主張であるが、こうした強引さはその後のアメリカの歴史に付きまとうことになる。日本への原爆投下が上陸した場合のアメリカ兵100万人の生命を救うためであるとか、イラク侵攻が大量破壊兵器の製造を未然に阻止するためだとかいうのは、皆その例であろう。