ポルトガルにとって、喜望峰回りのインド航路は長い歳月をかけて発見した航路であるから、最高の国家機密に属していたに違いない。少なくとも、人類共有の財産として、全欧州に公開したしたというものではないであろう。しかし、ポルトガルが新しいインド航路を発見したという機密は、その後のポルトガルが豊かになっていく姿をみれば、他のヨーロッパ諸国にも凡その想像はつくことである。凡その想像がつくのであれば、他の国家はその秘密を盗み出そうと様々な企てを行なったことは想像がつく。
その企てが成功したか否かであるが、その後、スペインが西回りの航路の開拓に乗り出したり、イギリスが北氷洋周りの航路開拓に乗り出したいるところをみると、成功したとは思えないのである。つまり、ポルトガルはインド航路の秘密を守りぬいたと解せるのであるが、ただ、その秘密をいつまでも守りきれたかとなると、疑問が残る。
その疑いを強くするのは、オランダの活動である。オランダは1581年にスペインから独立し、1602年に東インド会社を設立して東アジア貿易開始することになるが、こうした貿易を始めるについて独自に航路開拓に成功したという話はきかない。
そこで、オランダがいつ東アジアへの航路開拓に成功したかということになるが、それは、スペインから独立戦争の過程及び結果であると判断したい。この時、ポルトガルは既にスペインに吸収され、そのスペインから戦争によって独立を勝ち取ることは、スペイン及びポルトガルから、国家機密をも奪い取ったものと解せないでもない。そして、そうして奪い取った最高機密はもはやスペイン、ポルトガルに遠慮することなく、思う存分オランダ自身のために活用することができる。かくして、オランダが東アジア貿易の主人公となって活躍する舞台が整った。