明朝の皇帝たるものは、明朝成立の経緯をようく理解して皇帝職を務めるべきであったろう。しかるに、張居正死後の神宗、嘉宗にはその自覚が欠けていたとみなければなるまい。中には、豊臣秀吉の侵攻のごとき皇帝の責任ではない部分もあるにはあるが、皇室費の濫費や増税につぐ増税、そして魏忠賢など宦官の重用により、庶民の不満を招いたことなどは、明朝の成立過程が庶民の支持に基づいていたという事実を忘れてしまったかのごときふるまいといわねばなるまい。
しかし、皇帝といえども人間であり、常に、明朝成立の経緯を忘れずにいるというもの過重な負担である。となると、どうしても明朝政権そのものの仕組みに根本的な改革を加えなければならないということになろう。といっても、改革を主導するのは皇帝陣営であるから、皇帝の存在そのものまでを否定してしまうことなどはありえない。
となると、皇帝という存在を残したまま皇帝となるべき人物の資質に影響されない政治的仕組みを考案しなければならない。それこそが立憲君主制であるが、ただ、こうした政体を布くには、どうしても議会という存在が必要になる。ところが、中国史を振り返ってみて、議会という概念がうかんできたことは、これまで一度としてない。ということは、漢民族がせっかく打ち樹てた王朝である明も、その存続する道が塞がれているということになろう。