永楽帝の治政は始めから制約を抱え込んでいた。それはまず、帝位に就く際の事情から始まっている。永楽帝の先帝は建文帝であり、建文帝にはまだ失政といえるほどのものはなかった。にもかかわらず、永楽帝が帝位に就いたのは、まぎれもなく簒奪であり,このことは否定しようもない。それは例えば,洪文帝が元朝を倒す時に掲げた大義名分が滅夷興漢であったのに比べて、単に奸側を除くということだけであり、しかも、靖難の役で建文帝がその要求に応じて方孝儒以下の君臣を除いているのであるからなおさらである。これでは、方孝儒から燕族といわれてもやむをえない。
そして、そうした経緯があるからこそ完全に建文帝を打倒するにも時間がかかり,やっと宦官の内通によって帝位を奪うことに成功するのであるから,宦官への配慮がその後も必要となり、同時に宦官の専横をも許すということにもつながる。それがまず第一の制約として、永楽帝の治政を拘束することになるが,第二は打倒してモンゴルへ追い返したはずのモンゴル対策である。
モンゴルは元朝が倒されたとはいえ,それは本来の根拠地に戻ったというだけで、民族として消滅してしまったのではない。追い出されたというのであれば,取り戻したいという欲求が生ずるのは当然のことであり,それに対しての対策は追い出した側の務めとしてやむをえないものであろう。その対策が、永楽帝の第二の制約として課せられてくるわけであり,永楽帝の治政は見方によれば,そのことだけに専念させられていたといっても言い過ぎではなかろう。
ただ、それだけに専念していた成果として、対モンゴル対策は成功したと評価してもいいのではなかろうか。もっともそれは、モンゴルがタタールとオイラートに分裂し、永楽帝が一方に味方して、他方を後退させ,又時期がくると,今度は他方に味方して、一方を後退させるという戦略を巧妙に使い分けられたという相手方の不統一が起因であるという点において、幸運であったというしかない。