坑州に都を移した南宋は、軍事費の増大に伴い、増税に次ぐ増税を行なったというが、靖康の変から得た教訓としては妥当な政策転換であったろう。ただ、そうした政策転換が市民の支持を受けるとは限らない。ことに一度は、自由な市民社会を経験したとなればなおさらであろう。とはいっても、金という外敵が厳然として睨みをきかせている限り、そうした政策転換はやむをえない。
結局、外敵対策をとるか市民優遇対策をとるかの選択になるのであるが、理想としては、外敵が消滅し、外敵からの脅威が無くなっってから市民優遇対策に移行したいというところであろう。問題は、市民がそれまで我慢できるか否か、ということであるから、宋朝としてはなるべく機会を捉えて外敵を除去できるものなら除去したいというのが本音であろう。
そのような状況下、外敵たる金が自らの漢化政策への移行に伴い、従属下にある女真族を粛清し、その結果、内部が混乱しているという情報が入ってくる。さらに、モンゴルという新たな強敵が出現し、金がそれに対応し切れなくなっているという情報まで入ってくる。こうした新しい情報は南宋の対金対策のみ直しを迫ることになる。それは、金のみを外敵としたそれまでの単純な外敵対策とは異なり、多面的な駆け引きを要求される対策となるであろうが、必ずしも、南宋が主導権を握れる対策になるとは限らない。現実的な力関係によっては、それまでの対金対策よりもより従属的な関係を強要されることになるかもしれない。