安録山を節度使に任命したのは、宰相李林甫であるという。それからみると、節度使の任命権は宰相にあるようにみえる。しかし、李林甫を継いで宰相になった楊国忠は安録山を警戒視しながらも、節度使を解任することができなかった。任命権があるのに解任できなかったということは、宰相の任命権には何らかの制約がかかっていたと見るべきであろう。その制約とは言うまでもなく、皇帝の意思であろう。つまり、宰相の任命権も皇帝の承認がなければ、行使することができなかったということか。
それだけ皇帝の政治的権威が高かったというべきであろうが、その政治的権威も実力が伴ってこそものである。安録山が反乱を起こし、玄宗皇帝がたちまちその反乱を鎮めたというのであれば、その政治的権威は保たれたということができようが、鎮めるどころか宮廷を脱出するまでに追い詰められ、結局、自らの力で収拾させられなかったというのでは、今までどうりの権勢はのぞめない。唐朝の政治的権威は一気に低下したのである。